先日、日本のGDPが世界第4位に転落するというIMF(国際通貨基金)による見通しの報道があり、国内は騒然としている。

金利は上がり、政府による増税の声もあがっている。
給与据え置き&インフレ・円安という状況下、増税を宣言する政府に対し内閣支持率は28%へと下落。
その数値は過去最低を更新した。

デモもストもボイコットも起こさず、
内閣支持率の質問への回答に、とても受け身な反応でしか意思を示さない我々日本人たちの態度を見ると、なにか異様なものすら感じるのは、気のせいではないだろう。

この態度の根底にあるものは受け身でもあきらめでもない。
国民性による「我慢」なのだ。そう感じる。
地震や津波、台風や噴火といった天災に耐え抜き、民族を守り抜いてきた日本人にとって、
なにかあったときの我慢は、ベストプラクティス(最善の対応策)なのである。

そしてこんな時代、我慢の先にはなにがあるのだろうか。
そんなことをコラムでも考えてみた。


●今月のブログ
『人間の条件』(ハンナ・アーレント著)~大衆の中での個人主義のあるべき姿~
https://tech-dialoge.hatenablog.com/entry/2023/10/28/102318

『世界インフレの謎』(渡辺努著) ~経済解決はトリクルダウンか賃金アップか? 介入か対話か?~
https://tech-dialoge.hatenablog.com/entry/2023/10/23/113710

第43回飯田橋読書会の記録:『昨日の世界』(Ⅰ・Ⅱ)(シュテファン・ツヴァイク著)
https://tech-dialoge.hatenablog.com/entry/2023/10/10/162252

ChatGPTは人類を超えるか?
https://tech-dialoge.hatenablog.com/entry/2023/10/07/174725


●今月の雑感:我慢と受け身、その先にある自由について
最近の若者は我慢強さがない。
いつの時代にもこの言葉はよく耳にする。
とくにいまのような政治経済が乱れた状況では、若い人たちに我慢を強いられる局面が多々ある。

50歳で起業した私は、40代後半、自分が会社勤めを辞めて起業することを、1940年生まれの伯父に相談した。

戦中派の伯父の返答が印象的だった。
「起業はとりやめにして、もう少し会社で我慢すればいいじゃないか」
こう、断言された。

私の子供時代からをよく知る伯父の親心からの発言であることは、よくわかった。
しかし、その返答の真意を瞬時に理解することはできなかった。

企業で勤めることで一生暮らせる退職金が出るわけではないし、
老後の年金も十分に出るのかわからない。
我慢の先にぶら下がっているはずのニンジンが、どこにも見えない。
ましてや、老後まで生きているのかすらわからない。

我慢の後に、気が付いたときには死しか待つものがない。
そうとしか、私には理解しづらかった。
しかし、伯父はそう思っていなかったのだ。

伯父からすると、退職金と年金がセットでもらえることは当たり前だった。
さらには、戦争体験の記憶から比較すると、
月給をもらって普通に生きていくだけでも大変な幸福である。
そんなマインドセットを持った人が、私のような勤め人の退職といった既得権の放棄を耳にしたら、それは、「我慢しろよ、もったいない」となるのだろう。

▲我慢で富が手に入った昭和という時代
伯父たちの世代は、我慢により幸福を手にすることができた。
まずは、終戦である。
昭和天皇の「耐え難きを耐え」が象徴しているように、
国民は我慢を通して敗戦から奇跡の復興を遂げ、高度成長による国家の繁栄を手にした。
同様に伯父も、敗戦後、旧満州・大連から命がけで帰国し、
戦後の裸一貫から、学生運動の動乱を経て企業に就職し、
高度経済成長の波に乗り、がむしゃらに働き給与と貯蓄を増やし、
車付きの一軒家を持ち、家庭とともに平和で幸福な生活を手にすることができた。
そして人生後半は我慢を続けることで、平穏な年金生活を手にすることができた。

伯父から何度か大連時代の話を聞いたことがある。
日本の敗戦が見えてきたころ、祖父(伯父の父)は大連に入ってきたロシア兵から家族を守ろうと、日本刀で武装して日本人居住住宅の屋上で家族とともに立てこもっていたという。
あるときから街中が、赤旗と毛沢東の写真でいっぱいになった、という話もたびたび聞いた。
そこから、一時は豊かだった大連の生活をすべて捨て、日本に帰国し、ゼロベースから生活を始めたわけだ。
私のような、戦争も動乱もなにも知らない平和世代の頭の中など、想像もつかないはずだ。

伯父の世代には、ブラック企業という言葉も自己実現という言葉も存在しなかった。
言ってみれば、彼らは、平和の中で自由に生きられるだけでよかった。
つまり、世代により、我慢の先には違った未来がある、ということである。

▲我慢と自由は貸借関係で成立している
いまの20~30代の社会人たちの「我慢の先」には、いったいなにがあるのだろうか。
我慢して資格試験に通過すれば、仕事に選択肢が増えてポジティブな人生が拓けるのだろうか。
我慢して昇進試験を突破すれば、月給が増えて未来が明るくなるのだろうか。
我慢して業務命令を聞いていれば、ポジションが上がり、自由度と月給も増え、退職金を多くもらえて豊かな老後を迎えることができるのだろうか。

おそらく、そういった意味で、我慢の概念はあまりないはずだ。
資格試験も昇進試験も業務命令も、人生の自由度アップのために前向きに、業務命令もキャリアアップのためにポジティブな姿勢で楽しみながら取り組んでいることだろう。

戦中派の伯父が言うハードな我慢と上記のソフトな我慢には、類似点がある。
それは、受け身である、という点だ。

高度成長経済時代は、会社に勤め、我慢して上司の命令を聞いていれば月給が増え、家を買ったり貯蓄もでき、将来が見えなことは考えづらく、着実に老後を手にすることができた。

言い換えれば、高度成長経済に乗っかった形での受け身である。
社内での自由度アップやキャリアアップも、
言い換えれば、収益の拡大という企業の成長に乗っかった形での受け身である。

しかしいまは、収益を拡大させ成長する企業はごく一握りになり、
結果、日本の高度経済成長も過去のものとなった。

ではどうするか?
受け身の状況から脱することである。
受け身であることは安楽である。
他に判断を委ねることで、自分に降りかかるリスクを回避することもできる。
一方で、受け身は慢性化する。
受け身の状況に自分では気づかない。

国家や企業の繁栄に乗っかることで期待されることは、自由な人生である。
自由とはつまり、意思決定を自分で実施し、人生のハンドルを自分が握ることだ。
戦中派が享受したような高度経済成長時代の中では、
企業や組織に自由を手渡すことで(絶対服従の我慢、パワハラやセクハラの我慢など)、
それを上回る自由(安定した月給やマイホーム、マイカーなどの購入、約束された老後、そうした人たちとの結婚など)を手にすることができた。

しかしいまや、このような我慢と自由の貸借関係が割に合わなくなってきた。
1980年代は、パワハラやセクハラは業務の一部としてまかり通っていた。
なぜなら、我慢と自由の貸借関係が割に合っていたからである。

言い換えると日本人は、少し我慢すればイージーに自由が手に入る。
そう思っている傾向があるのだ。

▲日本人にも「受け身」な生き方が難しくなってきた
日本人には素晴らしい特性がたくさんあるし、
欧米人とは比較できないプラスのマインドセットが備わっている。
しかし、こと「自由」に関して日本人はちびっ子同然で、欧米人から学ぶところが多い。
なぜなら欧米人の中には、自由を手に入れるコストは相当高いのだ、というマインドセットが備わっているからだ。

北米大陸を開拓した欧州人たちの生活状況を見れば一目瞭然だ。
彼らは国境があるのだかないのだかわからない広大な土地の中で、多数の言語と宗教と民族とで共存している。
言い換えれば、なにかあれば、今日の我が家が明日の異国、である。
ポーランドには隣国ウクライナから多数の戦争難民が押し寄せて来ている。
ポーランドを超えてドイツに向かう難民もいる。
ウクライナの隣国には多数の軍用機が上空を飛び交っている。
彼らはいつも、自分という個人の自由がいつ奪われてもおかしくない日常の中に立たされている。
昨今のイスラエルを見ていても、それはリアルタイムでわかる。

日本は島国だからイギリスと似ているという人もいる。
が、島であること以外はまったく似ていない。
日本は地政学的に、程よく異国から攻めづらい、いい位置にある。
いわば天然要塞のような土地に何千年も暮らしているのだ。
侵略はなく、出たり消えたり移動したりする国境もない。
そんな中で珍しい独自文化を紡ぎあけてきた。
平和ボケの日本人などとよく言われるが、平和ボケができるほどの平和と幸運に恵まれているのだ。

言い換えると、日本人は本来、受け身な生き方が最も適している。
とはいえ、企業や組織、社会と個人とのアンバランスに生きづらさを感じている日本人の数は、老若男女を問わず、増えている。

労働力が余っているのに企業は慢性人不足だったり、
日本に売り物がないのに海外企業に動画やWebを通して広告リソースを惜しげもなく流していたり、
働いているのに社会的な生活を送れない人が年々増えていたり、
社会は不可解なことばかりである。
こうした不可解は、ここ数十年で突如現れたものである。

▲自問自答力を養い、受け身から自由になる
私たちを取り巻く現実と、受け身な生き方がDNAに備わっている日本人の人種特性とのギャップが、生きづらさを感じている日本人の数を日々増やしている。
このギャップを埋めるための行動には、なにが望ましいだろうか。

絵を描いたり、旅に出てみたり、副業したり、起業してみるのもよいだろう。
が、いずれも表面的な行動である。
いちばんは、こうした行動の根底にある、受け身な自分の心と自問自答し、向き合うことである。

そのためのツールが本、しかも、古典である。
本も、資本主義経済においては商品の一つに過ぎない。
売れない商品は市場から姿を消し、売れる見込みの低い商品は流通にすら載せることができない。

同様の現象が、本の世界にも起こっている。

書店で売れている本を読むことは楽しい。
いまなにが流行っているのかを知り、
いまという時代の仲間に自分が入れるという楽しみや安心感もある。
しかし、上記のような課題解決のツールとして、この中から選ぶことは難しい。
やはり最も望ましいのは、古典である。

古典は、時代に淘汰された本である。
もちろん、ベストセラーは古典になりうる。
が、決して、売れたことが原因で世の中に残っているものが古典ではない。
人間にとって最も必要だから、
食べ物や空気と同じぐらい重要なものだから、
人間にとっての本質的な基準を通して淘汰されたものが、古典である。

読みやすく、親しみやすく、わかりやすいから残っているのが古典なのではない。
言い換えると、書店に並んでいる新刊書籍は、どれも古典の再解釈である。
著者が古典を解釈し、いまの読者の手に取りやすく、食べやすく、
読者をわかった気持ちにさせるための本が、新刊書籍である。
そして、古典を解釈した人は著者であり、あなたではない。

古典はわかわかりづらい。
また、学校の読書感想文などで古典の読書を強いられ、嫌な思い出を持つ人も多い。
とはいえ最近では、ネットやテレビ番組で手軽に触れられるように古典を紹介していたり、昨今の教養ブームで古典に関心を持つ人も増えてきた。

これはこれで、古典に接近するきっかけとして好ましい。
テレビ番組で楽しむことや、ブームとしての教養をつけるためのキーワード暗記から一歩踏み出して、古典を自分のためのツールとして使うことが重要だ。

自分にとっての古典を発見し、自分や仲間と読むことだ。
そして、自分自身で考えること。
「その解釈は間違っている」と、他人の読書を指摘する読書家も確かにいる。
しかしそれは一つの意見だ。
自分という個性が読んだ本の解釈と、他人の解釈を、しっかりと分けることだ。

意図的に「わからない」本を読もう。
「わかった気」ほど、危険なものはない。
自己解釈を恐れず、自己解釈をしよう。
そしてそれを、素直に受け止めよう。
本の解釈の権利を、他人に渡さないことだ。
これは、意思決定の権利を他人に渡すことと同じである。
これにより本に対する他人の解釈に、自分の心が支配される。
すると、「我慢」と同じ結果が訪れる。

我慢のDNAが備わった自分から解放され、
受け身と人生の生きづらさから自由になるための最短の道の一つは、
古典を手に取り、自問自答を繰り返すことである。
そして、自分だけの答えを手にすること。
その答えこそが、自分ならではの、自分だけにしか持ちえない、
自分だけの、悔いのない人生の未来にほかならない。


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今後も、さまざまな対話と交流の場の提供を計画しています。
状況の変化は、随時メルマガやDoorkeeper、Facebook、SNSなどで
お伝えします。ぜひチェックしてください。

【本とITを研究する会 Doorkeeper】
https://tech-dialoge.doorkeeper.jp/

【知活人】
https://chi-iki-jin.jp/

ここまでお読みいただき、深謝いたします。
心動かされる、自由な明日が見えますように!