ごたごたの中でオリンピックと夏が終わり、早くも秋が来ようとしています。
こんな時期、私はつくばに一泊リーダー研修に行ってまいりました。
研修を終えて雑木林にある公園を歩いていると、
偶然、ツクツクホウシの幼虫の羽化に遭遇しました。
秋の訪れを象徴するセミです。
幼虫の殻にぶら下がって白い羽を伸ばす成虫の姿はよく見かけましたが、
羽化の一部始終を見ることは人生初体験でした。
セミは孵化から7年間の地中生活を全うし、
1週間の地上での生命において次世代を生み出し、命を全うします。
その間に猫やモグラ、鳥などの動物に襲われたり、
無事羽化にこぎつけても突風が吹いて落下してしまったら、
その場で死に至ります。
この小さな動物は、命がけで生きています。

人間は安全に生き延びるために組織を発明し、発展させてきました。
その発展とはいまどうあるべきなのかという課題に考えをめぐらせました。
研修2日目にJAXAの施設を視察したときには、
こうした生命の誕生を探ろうと人類が巨大ロケットで巨大機器を携えて宇宙に旅立つ展示を目にし、深く心が動かされました。
セミはどこででも見かける小さな動物ですが、もし地球外で採集されたら大発見です。
地球上の常識は地球外の非常識です。
メディアを通して命にまつわる報道が日々聞かれる中、
様々な命の在り方を感じながら仕事の在り方を考えた、一泊リーダー研修という貴重な実体験でした。
このような機会は定期的に計画、実施できたらよいです。


●今月のブログ

第33回・飯田橋読書会の記録『ヴェニスに死す』(トーマス・マン著)
〜「パンデミック、ツーリズム、美少年」の謎を解く〜
https://tech-dialoge.hatenablog.com/entry/2021/07/20/130706

日経ムック『DXスタートアップ革命』の、見本が届きました。
https://tech-dialoge.hatenablog.com/entry/2021/07/06/163943


●今月の雑感:ワクチン接種と感性とについて
国内でもようやく新型コロナウイルスのワクチン接種が進むようになってきた。
ワクチンが国内に到着したものの配送体制に問題があったり、
海外開発のワクチンを日本人が接種して問題はないのか、副作用への不安など、未知のものに関する不安と恐怖がまだまだ人の心理を支配している。

以前にも書いたことがあるが、
私は27歳のときにインターフェロンによるC型肝炎治療を決断し、幸いにも完治することができた。
いまのワクチン騒動を見ていると、
そのときの自分の心境や周囲の同病者の動きなどを鮮明に思い出す。

C型肝炎ウイルスの特効薬、インターフェロン治療体験
1990年代、インターフェロンはC型肝炎を治す唯一の特効薬だった。
インターフェロンは1970年代に抗がん剤として有望視されたタンパク質で、
1985年、新技術開発事業団(現、科学技術振興機構)の委託によりに
東レが5年の歳月と10億の予算を費やし量産化に成功した医薬品だ。
いまではさまざまな治療方法が存在するが、
当時は強ミノ(強力ネオミノファーゲンC)注射を除いてこれだけだった。
ワクチンも存在しなかった(いまだ実用化されていない)。
C型肝炎が発見されたのは1989年で、それまでは「非A型、非B型肝炎」と呼ばれた未知のウイルスによる肝炎だった。

インターフェロンを特効薬として使いこなし、治療を進められる医師は国内でも希少だった。
1995年秋に慶応義塾大学病院で私の血液からC型肝炎ウイルスの存在が発見されたときには、「治癒率は半分以下。なかなか治らない悪質なウイルス」と医師から脅された。
「それは本当か?」とセカンド・オピニオンを求め東大病院に行った。

待合室で半日待たされ、医師からは「病床が空いていない。すぐに進行する病気ではないから、半年から1年待ってから治療をはじめてはどうか」という対応だった。

「それもまた本当か?」と、サード・オピニオンを求め、今度は虎ノ門病院に向かった。
医師からは「治療は早ければ早い方がいい。すぐに入院手続きを」と真逆のことを言われ、その言葉に乗ることにした。
当時の職場の上司に力になってもらい、その甲斐もあり、即座の入院と治療の開始ができた。

治療前には肝生研といって、わき腹から肝臓に針を刺して組織の一部を取り出し、さらに腹部から内視鏡と空気を入れ肝臓の表面を撮影するという、苦痛を伴う手術があった。
肝生研をへて治療方針が策定され、担当医師との闘病生活が始まった。

闘病生活ではいろいろなことがあったので割愛するが、
その間に出会った人たちのインターフェロンに対する考え方や、
副作用の出方が各人でまったく異なり、考えさせられることが多かった。

まず、インターフェロンの副作用を拒否し、C型肝炎のキャリアであり続けることを選択する人がいたことだ。
逆に、副作用覚悟で治療に臨む者もいた。
そのうえで、治療が成功するか失敗するか、であった。
一方で、病状によってインターフェロンをそもそも使うことができない、
治療の道を断たれた人もいた。

インターフェロンの副作用は、各人により出方がまちまちだった。
私の向かいで寝ていた30代半ばの保険会社の中間管理職は、ほとんど副作用がなく平然としながら完治した。
一方で私は、めまいと耳鳴り、頭痛、抜け毛、継続的な下痢と胃痛、吐き気、38度超えの高熱など、強い副作用が治療中長期で続いた。
インターフェロン注射は半年続いた。
胃痛を抑える胃薬と解熱剤の座薬は必需品としていつも持ち歩いていた。
治療後も軽度の副作用が何年も続いた。

筋向いにいた30代の男性は、インターフェロン治療の3度目の挑戦だった。
3度目も治療は成功しなかった。
インターフェロンは当時医療保険がきかなかったので、
「車が買えるほどお金を投じた」と、この方は言っていた。
治療が失敗し、入院道具をたたんで帰宅するこの方の姿は、いまでも忘れられない。

治療の選択は感性の問題
個人的な体験もあり、私は編集者として、医療にまつわる書籍の制作を手掛けた。
企画書を持って、名医と呼ばれる方々を全国に訪ね歩いた。

新潟には、免疫とがん治療の名医といわれる治療医と、その分野の基礎研究の医科大学教員がいた。
この方々とは東京でも頻繁にお会いし、しばしば食事に行くなど、深い対話と交流をさせていただいた。
大阪では断食で病弱体質と生活習慣病を克服したという医師を訪ねた。

耳鼻咽喉科医たちとはめまいと耳鳴りの治療の課題に取り組み、
当時としては画期的な新しいメディアづくりにチャレンジした。
本づくりを通した出会いと対話、交流は、私の医療観、健康観を大きく書き変えた。

対話と交流を続ける中、医師から聞いたとても印象深い言葉がある。
それは、「治療は感性の問題」という言葉である。

がん治療をテーマに取材を進める中、
患者さんが治療をするしないを選択するのか(治療をせずにクオリティオブライフを選択する人とそうでない人もいる)、どんな治療を選択するのかは(抗がん剤治療にチャレンジする人とそうでない人もいる)、患者さん個人の感性に依存し、判断されるものだというのだ。
そして医師と他者はその感性と判断を受け入れ、尊重することが重要だという。

つまり、治療は自分の意志で判断する。
医師や他人に判断を任せない、である。
自分は自分の体のオーナーないし経営者である。
そして本来、医師や他人はコンサルないしアドバイザーである。

当時(2007年ごろ)は「がんは不治の病」というイメージがまだあり、
本人にがん告知をしないという選択も多かった。
それゆえ治療に「感性」という言葉を使うこと自体、
なかなか受け入れられがたい空気があった。
言い換えると、病気を治すのは医師の仕事であり、患者は治療される対象である。
さらに言い換えると、医師は病気治療の責任者であり、自分はその責任外、である。
この現象と構造が、患者が医師を告訴したり、
医師は告訴を恐れて患者との対話を恐れたりを引き起こした。
ひいては、治癒の可能性が高くても複雑な治療やリスクのある治療を患者に施すことを回避するようにもなる。
医師は患者の告訴に委縮し、患者は医師の態度に委縮するという悪循環が生まれる。
これも、昨今の課題となる医療崩壊の大きな一因である。
だからこそ、医師たちとは積極的な対話を試みていただきたい。
対話を拒むようなら、それなりの医師だと見切り(もちろん、多忙など時間的制約はあり一概には言えないが)、医師を変えた方が良い。
治療が長期にわたるようなら、なおさら医師を変えたほうが良い。

感性の評価と判断は偏見と差別の源になるから要注意
医療の本来の姿は、医師と患者が対話し、医師は患者の体のコンサルとして治療をヘルプをする、という形である。
コロナ禍を機に、どんな人でも、医療と真向に取り組まなければならなくなった。
それは受け身ではなく、感性を働かせる医療である、ともいえる。
新型コロナウイルスのワクチンを接種する・しないは、感性の問題である。
相手の感性を尊重することなく、評価、判断することは、偏見につながる。
そして偏見は差別を生み出し、差別は虐待を生み出す。

東京オリンピックの楽曲を担当していたミュージシャンが凄惨な虐待を武勇伝として語った過去の雑誌対談記事が引き合いに出され、担当を辞退するという事件があった。
この事件を通し、いまの人の感性は虐待に敏感であると私はとらえる。
むしろ、そうあってほしい。

虐待の加害者になる可能性は誰もが持っている。
それを知りながら、私たちは感性を磨き続けていく。

ワクチン接種が進む現状の次に見えてくる課題の一つである。